たまには・・・考える

ギリギリだと買えない

駅売りの新聞
電車の時間ギリギリにバスが着くと買いそびれるんだけど・・・・
今日と明日はいつもの朝日に加えて英字新聞も買うことにしよう。
理由は・・・・この人 ↓

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類をみない名演説家とされる新大統領が、どんな就任演説をしたのか、
言葉遣いからしてちょっと興味あり。

ちなみにこのタイムの広告の隣には、「就任演説全文収録!」なるCDの広告。
リンカーンのゲティスバーグの演説やケネディ大統領の就任演説も収録してるんだって。
おお、「オバマ演説集」なんてCDも既に出てるんだ。
そりゃ、そうだよね。
英語を聞くことからすっかり遠ざかってしまっているわたしですら、オバマさんの演説は聴いてみたいって思うもんなぁ。

英語をちょっとマジメに勉強していたころは、海外ニュースはもちろん、いろんな人の演説を課題で聞かされたけど(最近話題のキング牧師の“I Have a dream....”っていう有名なのも聴かされた)、それらに比べてもオバマさんの話は言葉がわかりやすいし、抑揚があってクセが少なくて聴きやすいと思う。
通訳の勉強とかしている人にはおススメかも。

話はそれたケド、予備選挙のときに「わたしに投票権があったらオバマさんに入れる」なんて書いたものの、ホントに大統領になっちゃうなんて・・・・
アメリカも捨てたもんじゃないですね。
っていうか、やっぱりスゴイ国、何かが起こる国だ。いや、素晴らしい。
日本も・・・・なんとかせにゃあ!

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指導者・・・

マリンキッズたちとともに森戸川へ。
今日のプログラムは「学校支援リーダー」の養成講座の実習も兼ねているので、初めて参加するリーダーも何人もいて、子ども10人に対して大人が17人、加えて森戸川を案内してくださる“森戸川村”の方が5人(一緒に歩いたのは2人、焚き火&焼き芋のお世話をしてくださった方が3人)なものだから、なんとなく身の置き場がなく・・・・。
今日わたしに与えられた役回りは「アドバイザー」というエラそうなもので、初めてグループリーダーを体験する人のサポート的立場だったのだけど、それもまったく出番がなく(笑)

「学校支援リーダー」講座をきっかけに、自然体験活動の指導者を目指して新たに集まってきたメンバーを見ていると、数年前の自分の姿を思い出す。
ひとつひとつの対処に悩み、考え。評価会では、他のメンバーや指導的立場の人の言葉を熱心にメモ。リーダーとはどうあるべきか・・・・真剣に模索している。
「ああ、わたしもホントそうだったな」
そんな風に他のメンバーを眺めている自分が、やけにスレてしまったように感じたりして。今ではよっぽどのキーワード以外はメモを取ることもないもんなぁ。

だけど、スレた、というよりは肩の力が抜けた・・・・と考えたい。
リーダーとは“どうあるべき”か???
どんなリーダーになりたいか、理想を掲げるのは大事なこと。
それに向けてのスキルアップも、もちろん大事。
だけど、「こうならなくちゃ」とか「今のままではダメだ」とか、そう考えるのはチョット違う気がする。
逆に言えば「ここまでできればOK!」なんていう答え(ゴール)も、ゼッタイにない。
ましてや他の誰かのようになれるワケもなく。
日々、二度と同じ条件になることはない自然環境の中で、さまざまな感情、背景を持つ“生身”の人間を、“生身”の自分が相手にしているのならば、当然のこと。

5-6年の経験を積んで、やっと最近そんな風に考えられるようになって、ずい分とラクになれた。
それまでは、磯観察やスノーケリングで8人の子どもをサブひとりだけ付けてもらってリーディング・・・・なんて役目を任されようものなら、相当なプレッシャーがかかったものだ。他のグループリーダーの顔ぶれと自分を比べて「うまくできるだろうか」と不安になったり。「仮病使って休みたい~」って、マジで思ったこともしばしば(休む度胸もないクセにね)。
自分はうまくできるのか? 自分に何ができるのか?
自分はどう見られているのか? 子どもたちに、他のリーダーに、OFのスタッフに?
自分は、自分は、自分は・・・・意識が向くのは自分に対してばかり。

だけど、活動の主役はリーダーである自分ではない、あくまでも子どもたち。
自分が彼らの目にどう映るかではなく、自分がどれだけの目を彼らに注ぐことができるのか。
立ち位置のシフト。
これは自然体験活動だけではなく、日常における人間関係においても、かなり機能する。
passive → active へ

・・・・・
そんなことを考えながら参加していた今日の評価会。
本来ならば、リーダー経験が多少ある立場として、いろんなことを“語る”ことを期待されていたのかもしれないけれど、わたしの感想はたった一言。
「“(森戸川に)また来よう!”という言葉が子どもたちの口から聞けたことが、何より嬉しかったです」

「また来ようっと!」・・・・今日の体験が楽しくなかったら出てこない言葉、寒さや雨にメゲていたら出ない言葉
そう考えれば、「また来るね」という一言ほど、今日のプログラムの成功をハッキリと示すものはない。
今日、そんな場にいられたことを嬉しく思う。

これからも、わたしはわたしらしく、他の誰でもないわたしのままで、プログラムに関わっていかれたら。
参加者が最大限楽しく、安全に過ごし、実りある活動にできるよう・・・・もちろん、そうなんだけど、「誰かの“ために”」なんていうことさえも、なんだか不遜な気がする、この頃なのでした。
わたしにできることは、わたしのままで、ここにいる・・・・ということだけだなぁ、なんて。

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検索エンジン

テンプレートを新しくしたら、サイドバーに「検索ランキング」なるものが出るようになった(別に頼んでナイんだけど・・・・笑)
ランキングっていっても多い順ではなくて、単に前日までの検索フレーズが新しい順に並んでいるだけのよう。

それはどうでもいいんだけど、アクセス解析を見ていると、みなさんいったいどんな言葉で検索してこのブログにたどり着くのか・・・・ってのがわかって、なかなか面白い。
近頃はフラに関するキーワードが多いみたい。
で、利用されている検索エンジンもいろいろなんだけど、やっぱり google か yahoo が多い。
でもね・・・・

中には「そんなこと一度も書いた覚えはナイ!!」って言葉でヒットしてくる人もいるんです。お気の毒とは思いますけど。
あるいは、確かに書いたことのある内容なんだけど、うまくそのページにたどり着けてない人もケッコウいる。
で、そういう人が利用している検索エンジンはダンゼン yahoo なんですね~(これはドクダン的評価ではナイですよ)
google を利用している人は、たいていビンゴなページにたどり着いているみたい。そこに欲しかった情報が書かれていたかは知らないけれど f(^_^;)
わたしは以前から、いくつかの検索エンジンを使って、同じ言葉で検索して比べて「yahoo より google」と思っていたけど、やっぱりねって感じ。

このことに気づいてから、もう検索には yahoo を使わず、必ずググることにしました。
みなさんもご参考になさってはいかがでしょう。

そうそう、検索してたどり着いて、でもいまいち欲しい情報じゃなかったときは・・・・そのページだけで諦めるのではなく、ブログ内をいろいろ探してみることをおススメします。ヒットしたページの前後の日記とか、カテゴリー別ページを見てみるとか。
特にイベント関係は、開催前のご案内と、行ってみた感想と両方書く場合が多いので、月別ページを見るとか。
せっかくご縁があって(?)来ていただいたのですから、少しでもお役に立てれば・・・・と思います♪

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この日

今日も朝からミンミンゼミの声がひときわ大きく聞こえていた。
63年前のこの日もそうだったのだろうと想像する。

お腹が空けば食べたい物を食べ、自由になる時間には(ある意味ナンの生産性もない)趣味に打ち込み・・・・日頃の自分を振り返り、それに罪悪感を感じる必要はないけれど、この時代の、この国に、生まれたことで与えられているものを当たり前とせず。

この国の今のあり方がパーフェクトとはとてもいえないけれど、日本国内にも生きる希望を失っている人がいるのも現実だけど、それでも。
今日という日に、この国に生まれた幸せというものに、少し思い馳せてみるのはムダではないと思う。
63年前の日本だけでなく、今現在の地球上にも、戦禍に巻き込まれている多くの人がいることを思えば。

今朝のJ-waveの番組“Tokyo United” では、この日だからこそ聴きたい曲リクエストというのをやっていて、久しぶりにBIGIN が唄う「涙そうそう」を聴いた。
わたしだったら何をリクエストするかな・・・・

♪ Where have all the flowers gone・・・・♪
声高に叫ぶのでなく、この歌のように静かに、けれど強く、意思を持ち続ける。
親しくしている20歳代、30歳代の若者たちが、武器を手にして人を殺す、あるいは殺される・・・・マリンキッズや Kawaiola の keiki たちが、親と別れ、兄弟を失い、夢を奪われる・・・・そんなのはゼッタイにイヤだ。
わたしが、あらゆる戦争を憎むのは、そんな簡単な理由。

黙祷とともに

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そこに暮らす、ということ

昨日の続き。
ジャンルに関わらず、作品作りを生業とする人があえて東京を離れた場所を拠点として活動することの意味について、小寺さんはこんなことをおっしゃっていた。

作家活動をする上では東京に拠点を置くのが最も有利なのは、まぎれもない事実。
にもかかわらず小寺さんが地方を選んでいる理由は・・・・“作家性”と暮らし=生活する、生きるということとは切っても切り離せない。もっと言えば、その土地に足をつけて、根を下ろして生きる、ということが、作家性の根本を成すのではないか・・・・と、最近思い始めたそうです。
自然のありようを表現する・・・・いのちを見つめる上で根を張るべき場所は、やはり東京ではありえない。
「湘南アトリエ散歩」の冒頭、著者がこの本を形にした想いが語られている部分にも、同じようなことが述べられている。

小寺さんとは次元が違いすぎるケド、わたしが葉山という町に暮らしているのも、少なからず“選んで”そこにいる、という感覚は持っている。
週に5日間、都内まで往復3時間半かけて通勤することを考えれば、東京とはいわなくても、もっと便利な都市部に住んだ方がダンゼン楽なことはわかってるんダケド。
にもかかわらず、やはり、葉山なのだ。
小寺さんとはまったく逆の意味で、わたしの場合、自分というものを形作っている大切なものは何か・・・・を考えたときの答えが葉山だったのだ。
生き生きと生きるという視点でみたときの、東京の限界・・・・。
もちろん、東京でイキイキと暮している人もいるだろう。これはあくまでも、わたしの基準で・・・・という意味。

毎日毎日、長時間かけて都内まで通って、でも毎日毎日帰ってくる場所は、大好きな海辺の町。
週末を過ごすのも、ここ。(家を空けてもっと地方に遠征することも多いケド)
仕事以外の、自分の自由になる時間を大好きな場所で過ごすことで、仕事とのバランスを保っているともいえる。
暮らし始めて4年目に入り・・・・相変わらず遠い南の島にも憧れるけれど、当分、ここを動くつもりは・・・・ナイ。

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スーパーな火曜日

結局、民主党も共和党もどちらも決定打は出なかったんですね。
長丁場になりそうな模様・・・・高みの見物してる分には面白いケド。

だけど、あの国の大統領が誰になるかで、日本はもちろん、世界中がいろんな意味で大きな影響をうける(多くの場合は、メイワクを被るとも言える)んだから、全世界の人に投票権が欲しいくらいだよなぁ・・・・って、いっつも思う。
そうすれば、ゼッタイに4年前ブッシュは落選していただろう。

え? もしも投票権があったら?・・・・わたしは迷わずオバマさんに入れますよ♪
マケインさんも共和党にしては見所がありそうだけど、いかんせん、お年がね。
やっぱりここは、若き指導者に期待したいなぁ。

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記念日とはいかに

昨日は8月15日。終戦記念日だ。
昨夜、J-waveの Jam the World を聴いていたら、水曜日担当のパーソナリティー八塩圭子さんが、番組の冒頭でこんなことをおっしゃった。

“終戦記念日”というのには、どうも違和感がある。記念日というのは、嬉しいことや喜ばしいことを記念する日という感覚があるから。だから終戦の日と呼びたい、と。

それを聞いて、ああ、と思わずニヤリとしてしまった。
わたし自身、ついこの前までまったく同じことを感じていて、“終戦の日”にこだわっていたから。
だから八塩さんの気持ちはよく理解できる。
けれど、最近、わたしは考えを改めた。
“終戦”は、やっぱり記念すべき日なのではないかと。

それは、宮本常一さんの著作を読んでからのこと。
宮本さんの「民俗学の旅」(講談社学術文庫)の中に、こういう部分が出てくる。
彼は戦時中、大阪市からの要請を受けて、食糧確保のために周辺の農家を廻って協力を仰いでいた。戦後、その人たちにお礼をいって廻ったときのことだ。

“そのときその人たちの中で「これから先どうなるだろう」と言った者は一人もいなかった。「先生やっと戦争がすみました。これから本当の仕事ができますね」と言ってくれた。実はこの人たちには日本は負けるであろうことはみな話していた。したがって挫折感は少なかったのであろう。”(以上、“ ”内の文章は同書より引用)

そう、その日、農民は、庶民は、もはや戦争の影響を受けずに、戦闘機の影に怯えずに、家族と離れ離れになることなく、自分たちの土地で、自分たちの暮らしを取り戻し、当たり前の日常が再び始められることを、心底喜んだに違いない。
もちろん、中国大陸で、遠く南方洋上で、広島で、長崎で、沖縄で、各地の大空襲で・・・・かけがえのない命を失った数多の人たちのことを思えば、喜んでばかりはいられない。
八塩さんの言葉の意味も、その辺にあるのだろうと思う。
されど。

戦(いくさ)が始まってしまった以上、それを止めることができなかった以上は、さらなる無駄な死が生じないことを約束する“終戦”は、やはり諸手を挙げて喜ぶべきことなのだ。
バンザイは、この日のためにあるべきだった。たとえ負け戦であろうとも。

終戦記念日は、戦が終わった喜びを、改めて思う日。
その日を迎えることなく亡くなっていった何百万の人々の命の上に、今日(こんにち)のわたしたちの社会が築かれているということに、思いを馳せる日。
先人たちの御霊(みたま)に、「二度と戦はしません」、「戦の手伝いはしません」と、誓いを新たにする日。

イラクにも一日も早く“終戦記念日”がやってきますように。
内戦や紛争が続く、その他の国や地域にも。
そして・・・・
沖縄に、本当の意味での“終戦”が、やってきますように。

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真夏の街角にて

昼下がりの外出先、日枝神社付近はいつになくものものしい雰囲気。
官邸や国会議事堂が近いこのあたり、交差点に警察官が立っているのはいつものことなのだけれど、今日立っているのは見慣れた青い制服の人ではなく、特殊な装備の人が複数。黒いヘルメットに体全体を覆う防弾衣・・・・ちょっと見、仮面ライダー風。
普通の制服だって暑そうなのに、この仮面ライダールック?ときたら、その比じゃない。それで陽射しを遮るものが何もない場所に立っているのだから、よほどの体力&精神力の持ち主に違いない。

でも、どうして今日はこんな人たちがたくさんいるんだろう?
と思って、気がついた。
今日は長崎の原爆の日だ。
62年前の今日も、こんな風に晴天で暑い日だったに違いない。
日枝神社の鎮守の木々は重たい緑色。たくさんのセミの声は、すぐ耳元で鳴いているようでもあり、ものすごく遠くから聞こえてくるようでもあり・・・・遠近感を失うような不思議な感じ。

たった62年前のこと。
自分の歴史として記憶している人がいるくらい近い過去のことだ。
わたしの母もそのひとり。この季節、テレビで終戦の特集番組がかかっていると、静かにリモコンを手に取り、無言で他のチャンネルに変える。
わたしが「見てみたいのにな・・・・」と思っていても、戦時中から終戦までずっと東京にいて、大空襲を経験した母からすれば今さら思い出したくもないのだろう。
彼女は、朝ドラの戦争シーンも大嫌いだ。
広島、長崎で原爆に遭った人々の気持ちは、いかばかりか・・・・たった62年前のこと。
子どもの頃、戦争があった・・・・という人たちが、まだまだたくさんこの国には生きている。
中国にも朝鮮半島にも東南アジアにも、生きている。
自分が幼稚園だった頃、小学生だった頃の記憶を、戦争の記憶で置き換えてみれば(かなりの努力、想像力が必要だけど)、それが決して遠い記憶でないことが想像できる。

たった62年前のことを置き去りにして、この国はいったいどこへ行こうとしているのか。
戦後レジームからの脱却って、なんなのよ。
カタカナ言葉でゴマカそうったって、そうはいかない。
わたしたちは、「あなたの国づくり」をあなたにお願いした覚えはない。

・・・・・
原爆、終戦というできごとの哀しみがいっそう募るのは、そのイメージとは正反対の、夏のどこまでも青い空と、眩しい陽射しと、ゆらめく熱気と、カラリとしたセミの声・・・・のせいかもしれない。
数年ぶりに多いというセミの声にクラクラしながら、ボーッとした頭で、そんなことをぐるぐると考えていた、昼下がり。

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あいさつは祈りの言葉

先日の中越沖地震では9名の方が亡くなられた。
災害、事故、事件を耳にするたびに、突然終わってしまった方のいのちのことに思いを馳せる。そして、今はまだ生かされてある自分や親しい人たちのいのちのことを思う。

時々おじゃまして読ませていただいている写真家・小寺卓矢さんのブログに、先日こんな言葉があった。

“僕はときおり、娘たちやカミさんとまた生きて会えるということが、実はとんでもない奇跡なのではないかと感じることがある。当たり前の日常は、じつは当たり前ではないのかもしれないと。 ”

まさにその通りと思う。
数年前にそのことを強くわたしに教えてくれた人がいた。

その人にはずっと定期的にお目にかかってきて、いつもお会いするのが嬉しくて。
3年半ほど前、翌週に会えることを楽しみにしていた矢先、その人は突然この世からいなくなってしまった。
その知らせを聞いたとき、わたしは彼と1ヶ月前に別れた時の様子を思い出していた。
普段どおりに手を振って、ニッコリ笑って「それじゃあまた!」
あの時は確か、わたしから手を差しのべて握手をしたのだった。その時の彼の思いがけずビックリしたような顔をもまた、思い出していた。
珍しく彼と握手をしようと思ったのは、別に、その後の永遠の別れを予感してのことではなかった、と思う。多分。今ではよくわからないけれど。
わたしの意識では、いつも通りの See you again.....だった。

彼から教えてもらったこと、得たこと、学んだことはホントにたくさんたくさんあって、それらは今でもわたしの中で大きな位置を占めている。
けれど、彼が最後に教えてくれたことは、そのどれとも違った意味で、尊く、鋭く、かけがえなく、わたしの中に刻み込まれている。
それは、
「今、目の前にいる人と、この次も同じように必ず会える」・・・・と当たり前に思ってはいけない、ということ。
それは、数年に一度しか会わない友人だけではなく、毎週顔を合わせている仲間でも、毎日一緒に暮らしている家族でも同じこと。もちろん、相手の年齢は関係ない。

だから、また会えて嬉しい気持ちを表す「こんにちは」、「おはよう」
再びきっと元気で会おうねっていう気持ちを込めて「またね」、「さようなら」、「バイバイ」
挨拶はホントに大切なのだ。

MKの活動の中で、なかなか挨拶ができない子どもたちにどう対処しようかと、リーダー仲間で話し合ったこともある。その時も、「なんで挨拶ってするのかな?」「どうして大切なのだろう」という素朴な疑問がメンバーから自然発生した。
答えはカンタン。
挨拶は、単なるシグナルじゃない。祈りの言葉だから。

先日のMKプログラムでは、ママさんライフセーバーが「自分に子どもが生まれたとき、自分は死んでもこの子のことはゼッタイに守ろうと思った。みんな(MK)のお母さんも一緒だと思う。みんなが家を出ていった時と同じように、元気な顔で帰ってくることが、なによりの幸せ」というお話をしてくれた。

そう、「いってらっしゃい」&「いってきます」、「ただいま」&「おかえり」も。
祈りの言葉、というのが宗教くさくてイヤならば、幸せを噛みしめる言葉と言い換えてもいい。
夜、寝ている間に会えなくなってしまわないように、「おやすみ」
朝、いつも通りに目覚めて、また会えてよかったねって、「おはよう」を言うんだね。

いつも通り・・・・それがなんと幸せなことか、いろいろなニュースに接するたびに、忘れないようにと、心に刻む。

中越沖地震でお亡くなりになった方のご冥福を心よりお祈りします。
そして、被災なさった多くの方が一日も早く日常を取り戻せますように。

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何を食べるか

レストランの話ではなく。
7月2日の記事「危ない食卓」の続き。

あの本を読んでから、スーパーはもちろん、デパ地下に足を運んでも、買いたいものが見当たらない。
「でんぷんと糖類と油にまみれたジャンクフード」とか「食品は加工するほど栄養価が下がる」とか、本に書かれていた内容が、どうしても思い出されてしまう。
もちろん、この本の著者もハッキリ書いているように、わたしもスーパーでの買い物をすべて否定するつもりは毛頭ないし、加工食品だってこれからも利用するだろう。
ただ、何も考えずに、ギモンに思うことなく、無意識に買うことだけはやめよう、と思う。
「安いから」、「便利だから」という理由だけで買うのも。

野菜は無農薬、できるだけ有機的に栽培されたものを食べたい・・・・そう思って、1年ちょっと前から「大地を守る会」の宅配を利用している。森仲間の(み)ちゃんが利用していて、紹介してもらったのだ。
その話をしている時に、自家用の野菜を作っている(か)さんが一緒にいて「手間ヒマかけて、丹精込めて作る野菜を、とてもあんな(スーパーの)値段じゃ売れないわよ~!」とおっしゃった、その言葉がわたしに心を決めさせた。
そう、そうに違いないのだ。そんなに安い食べ物は“不自然”なのかもしれない。
自家用と商業栽培とを単純には比べられない。当然、規模が大きくなればコストを下げることは可能だろう。けれど、あまりにも規模を大きくしすぎて、農業というよりも工業と呼んだ方がふさわしいような野菜作りは、やはりどこかおかしい気もするのだ。

「大地」の宅配を始めたきっかけは野菜だったけど、肉や魚、デイリーフーズ、加工食品、フェアトレード商品、石けん類、トイレットペーパーなども購入している。
値段は・・・・ハッキリ言って高い。
けれど、良心的なモノづくりをしている“国内の”生産者を応援したい。(フェアトレードという意味では、国外の弱い立場の生産者も応援できる)
自分がその商品を選ぶことで、世の中のしくみが少しでもよい方向に向かうのならば、そうしようではないか、と思う。消費行動は意思表示。
それに、安心はお金には変えられないし・・・・何よりも「大地」の食べ物はおいしいのだ♪
そりゃあ中には、フツーに買ってくるものと大差ないものもある。けれど、ほとんどのものは、間違いなくおいしい。
(「大地」の食べ物についての詳しい解説?は、後日また)

なーんてノウ書きをつらつら書いたけど、じゃあ、今日は何を食べたかって?
今夜のメインは、先日三浦ふれあい村で買った1個100円!のトウガン(フードマイレージはゼロ)と「大地」で買った豚バラ肉、デパ地下で買った国産有機大豆の木綿豆腐・・・・で、沖縄料理「ンブシー」(味噌炒め煮)でした。
我ながら・・・・うまうまでした~♪

PS:それにしても、この本にはいろいろなことを考えさせられる。今流行り?の「食育」についても、フードシステムを根本から変えない限り、絵に描いたモチに終わると思うんだけど。それについても、また改めて機会があれば。

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ガイアの5番

このシリーズの映画を観終わったあとはいつも、そこはかとない脱力感に見舞われる。
確かに上映時間も長いし、全編息を抜く場面がないから、体も頭も疲れる・・・・というのはある。
でもそれ以上に、なんというか心の力がスゥ~っと抜けていく感じ。憑き物が落ちる?というのかな。精神がピュリファイされるとも言えるかも。
自然と溢れてくる涙とともに、心に溜まった澱みが流れ去っていくようで。

この映画を観ていつも思うのは、人間の可能性って素晴しい、ということ。
人間が持つ知性、感性、創造性、体力ももちろん・・・・希望を持ち続けること、信じることの強さ。
それと、わたしたちを取り巻く世界には、人間には計り知れない法則が存在しているということ。人知を超えたその存在に気づいた人々が、ガイアの主人公なのだ。
普段の生活の中で見失いがちなそのことを、この映画はいつもわたしに思い出させてくれる。
そして今夜も。

20070607_002地球交響曲第五番”を、公開されて2年後にして初めて観る機会を得た。
本当はできたての6番を見に行くつもりだったのだが、直前になって今夜上映されるのは5番だと知った。
会場はほぼ満席。上映前に、予定になかったハズの龍村さんのお話が聞けたのもラッキー。

9.11事件があって生まれたとも言える5番のテーマは「誕生」
ラズロー博士のお話はちょっと難しくて、イメージとしてしか捉えられなかったけれど。
彼のメッセージも含めて、5番からわたしが得たものは「動こう」ということ。
四の五の言ってないで、無駄口はたたかないで、まずは動く。自分から。
そこから必ず何かが変わる。考えているだけでは何も変わらない。

観終わって、力が抜けて、けれどもまた不思議と力が湧いてくる、「何かせずにはいられない」気持ちに突き動かされるのも、いつものこと。
今夜5番を観た体験が、わたしの中でたしかに意味を持って形作られるまでには、まだまだ時間がかかりそう。
でも、とりあえず明日から引き続きできること。それは・・・・

笑おう。
自分の足で歩こう。
そして、謙虚でいよう・・・・難しいけれど。

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みどり色の不思議

森の中を歩く楽しみを覚えて以来、何年も前からずっと不思議に思っていたことがある。
それは、みどり色って不思議な色だなぁ・・・・ということ。

新緑の奥入瀬&蔦の森を歩いたときも、先日の玉原の森でも、体中が緑色に染まってしまうかと思うくらい、とっぷりと様々な緑色の中に浸りつつ、今年もまたやはり同じことを考えていた。
「どうして人間は、植物の緑にこんなにも癒されるのだろうか・・・・?」と。

040331_ 多くの植物が緑色の葉をつけるのは、光合成をするために葉緑素をたくさん含んでいるからだ。それは小学校で習った。
なぜ葉緑素は緑色なのかというと、太陽光のエネルギーを最も効率よく吸収するのが緑色だからだ。
植物が緑色をしているのは、ただそれだけの理由。別に人間を癒すために緑色をしてくれているワケではない。

にもかかわらず、なぜ人は・・・・?
こんな疑問が浮かんだのはいつだったか忘れたけど、ある時「この葉っぱが違う色をしていたら、なんだか嬉しくないだろうなぁ・・・・」と思っちゃったのだ。
秋の紅葉はキレイだけど、一年中あの色だったら・・・・疲れない??
空の青、海の青は大好きだけど、森の木々が青かったら・・・・なんだか寒々しくて、あまりウキウキできない。
茶色、灰色、黒!・・・・なんて問題外。白もちょっと単調よね。
そう考えると、樹木はやっぱり緑色。

植物の生存に単に都合がいいだけの色を愛でる・・・・人間にはそういう遺0407伝子が脈々と 受け継がれているに違いない。
もしも植物が人間にとって嫌な色をしていたら、人間は今以上に植物を駆逐しようとしただろう。
そうされないために?人間にとって心地よい色をしているのは、植物たちの生き残りの戦略か、それとも人間側の防衛本能か。
だって植物がいなくなったら、わたしたち人間は生きていかれない。

どうしても「みどり色」には、人間なんかには与り知れない大いなる英知が働いているように思えてしかたない。
その英知に逆らって、ムリヤリ無視して、森を侵食し続けている現代人は、動物的本能、生存本能がマヒしているとしか思えないのだけれど、そろそろ気づいてもいいんじゃないかなぁ?

お金がいくらあったって、「みどり」がなくなれば、あなたもわたしも生きられない。
わたしたちは今日も、この瞬間も「みどり」に生かされていることを。

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やりきれない

また、やり場のない怒り、そしてやりきれない思いを抱かせる事件が起きてしまった。
愛知県長久手の発砲立てこもり事件。

このブログでは、世の中の出来事や話題を取り上げることを、意識して避けてきた。
それらから目を背けるつもりは毛頭ないけれど、個人的な楽しみを目的としているブログでそういったことを取り上げるのは、わたしの(ブログに対する)意に反するからだ。
それに、わたしには、自分の身の回りで起きたこと以外に、全体を客観的に見て考え、自分なりの意見を“タイムリーに”表明する力がない。
そういうのは、世の中に数多いらっしゃる他のブロガーに任せたい。

けれど、長久手の事件。
この事件の報道で知ったあることに、わたしはとてもショックを受けた。
それは、最初に撃たれた警察官が、現場に倒れたまま数時間も放置されていたということだ。
最初にネットの一報で事件のことを読んだとき、耳を(というか目を)疑った。
「ウソでしょう?」 どう考えても理解不能。
いくら警察官だからって、銃で撃たれているのに現場に倒れたまま、なんてことあっていいわけない。
しかも、撃たれたのは交番勤務の警官。町でよく見かける「お巡りさん」なんだよ。たまたまその時勤務していて、現場に駆けつけただけなのに。

家にはテレビがないので、その後の状況はわからないままだったが、今朝駅で新聞を買って、写真を見て、一層胸を衝かれる思い。
大本巡査部長が撃たれた右肩を押さえたまま倒れている写真・・・・。
「本当だったんだ・・・・信じられない」
事件の解決が最優先、事件に巻き込まれた民間人の安全確保が最重要・・・・など、警察にはいろいろな方針があるのだろうことは十分理解できる。大本巡査部長とも無線でやり取りをして、安否を確認していたそうだけれど。

されど、されど、だ。頭では理解できても、気持ちは納得がいかない。
警察官も命ある人間、家族もいれば、生涯の夢もあるひとりの人間だ。
撃たれた巡査部長のご家族は、あの数時間をどんな気持ちで過ごしたことか、家族を持つ人ならば誰にでも、容易に想像がつくだろう。
幸いにして、大本巡査部長は命を取りとめたようだけれど、彼の救出作戦中、若い警察官が撃たれて、命を落としてしまった。奥さんと、10ヶ月の赤ちゃんがいるんだそうだ。奥さんの、今の気持ちを考えると、言葉もない。

こんな事件さえ起きなければ・・・・。
以前、警察官の友人と話している時、「(4)が“ヒマでヒマでしょーがないよ”なんて言えるような世の中が来るといいんだけどね・・・・」なんて、子どもじみたことを言ったことがある。
その時、友人は「まあ、ムリだろうね・・・・歴史が証明してるからね」と笑っていたけれど。
彼だって、こういう事件にいつ巻き込まれてもおかしくないところで、いつも仕事をしているのだ。
そう考えると、今回の事件のやりきれなさが、一層身に迫ってくる。

どんな理由があるにせよ、わたしは一切の暴力行為を心から憎み、断固反対する。
それが個人のレベルであろうと、国家レベルであろうと。

亡くなった林巡査部長のご冥福を心からお祈りするとともに、大本巡査部長はじめ負傷した方々の一日も早い回復をお祈りします。
人質に取られていた女性は保護されたそうだけれど、事件が一刻も早く全面解決しますように。

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成長なくして・・・・?

予想通り安倍氏が自民党総裁になり新内閣発足。
支持率が65-71%なんっだって。いったい、どこの誰にアンケートとったんだよ~。
小泉氏以上にキナ臭さがプンプンする安倍総裁には懸念を禁じえない。でも戦争問題はもちろんだけど、環境問題についてはどういう認識を持っているのかな、ということがislandhopperとしては気になるところ。
答えはズバリ、「頭の片隅にすらナイ」でしょう。

だってスローガンが「成長なくして財政再建なし」だもん。いまだに日本のリーダーは「成長」「成長」って、ナントカのひとつ覚えみたいに言ってるけど(ちなみに小泉内閣は「改革なくして成長なし」だった)、いったいどこまで成長し続けようというのだろう。
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ここで、6月2日の記事“徹底したいケド”の中で紹介した本“スウェーデンに学ぶ持続可能な社会”について触れてみようと思う。(以下「」内は本書からの引用)
著者は、22年間スウェーデン大使館の科学技術部で環境・エネルギー問題、労働環境問題を担当した経歴を持つ。そこでの経験を基に、いちはやく「緑の福祉国家(生態学的に持続可能な社会)」を目指して方向転換を成功させたスウェーデンと、いまだに少子・高齢化問題、年金問題、環境問題・・・と多難を抱えてもなお、対応が驚くほど遅い日本とを比較して、その違いを明快に示している。

本の中では具体的な例をたくさんあげて説明しているのだが、ここではリーダーシップを取る立場の人の発言だけを引用してみる。
小泉首相(当時)の2002年2月4日の施政方針演説は「我が国が持続的な経済成長を取り戻すためには、経済・財政、行政、社会の各分野における構造改革を直ちに断行すべきである」という内容で、著者によれば「小泉首相のビジョン(政治目標)は“持続可能な経済成長”(つまり、20世紀の経済社会の延長上にある“経済の拡大”)です。」
一方、「スウェーデンのペーション首相は、1996年9月17日の国会での施政方針演説で、つぎのような主旨のビジョンを語っています。
“スウェーデンは生態学的に持続可能性を持った国をつくる推進力となり、そのモデルとなろう。エネルギー、水、各種原材料といった天然資源の、より効率的な利用なくしては、今後の社会の繁栄はあり得ないものである。”」

わかります? この違い。
かつて20世紀は「福祉国家」(著者によれば、人間を大切にする社会)として知られたスウェーデンは、この言葉のとおり、1996年から25年計画で「緑の福祉国家」を目指しているとのこと。そして10年たった今、かなりの部分がうまく機能していて、2001年に発表された持続可能な国家ランキングでは見事1位に輝いている。ちなみに日本は24位。(しかしこの発表では、スウェーデンでさえも持続可能ではない、と判断されている。今現在、地球上に持続可能な国家は存在しない)
著者は、両国の大きな違いは、政治のリーダーシップにあるとし、「スウェーデンでさまざまな先駆的試みが実現した背景には、行政がつねにビジョンを打ち出していること、そのビジョンのもと、方向のはっきりした政策を立案し、ビジョンが現実のものとなるための制度を用意していること」であると述べている。

本書の中では環境だけでなく、経済、年金などの社会制度・・・社会のしくみ全体について網羅していて、環境問題に興味があるならば、経済についても知らなければならない、と思わせられる。経済って、今までは一番縁遠い分野だったけど。

なんだか抽象的な話でわかりにくいと思うけれど、内容が充実した本書を簡単に紹介するのはとても難しい・・・ということを理解していただいて、環境問題に少しでも意識を持っている方には、ぜひぜひ、ぜひ! 手にとってもらいたい本。
とくに、わたしが「そうなのよ!」と思えたのは次のような部分。同じ思いを持つ方、いませんか?

「“地球にやさしい”“共生”などの心地よい響きをもったキャッチフレーズは“地球環境問題”という日本的概念を社会に定着させ、みごとなまでに環境問題に対する危機感を薄めてしまった感があります。あたかも、一人一人が“できることから始める”ことによって、環境問題が解決するかのような幻想を与える言葉ではありませんか」
「日本の環境基本法は、環境問題に国民一人一人が“自主的に取り組むこと”を求めています。しかし、社会制度や慣習を変更することなく、個人のライフスタイルの変更を推し進めることは、結果的に“意識ある個人や団体の熱意”をくじくことになりかねない」
「まず、個人が始めるのではなく、国や自治体が“理念”と“めざすべき方向性”を明確に提示し、意識ある国民の意欲を開花させるためのインセンティブ(誘導策)をつくるような仕掛けを国民の合意のもとにつくれば、事態は好転するのではないでしょうか」
「私たちがいまなすべきことは・・・“身近なところ(こと)から始める”“できるところ(こと)から始める”ではなく、“現状をよく知ること”です。
“私たち一人一人の力は本当にささやかであるが、そのささやかな力でも無数に集まれば、社会を動かすことができる。・・・やがて大きなうねりとなって社会に変化が起こる”
こうしたメッセージには、“異議なし”といいたいところです。しかし、こと日本の環境問題に関しては、あえて異議を唱えなければなりません。このような発想からは、“環境問題の規模の大きさについての認識”と“時間の観念”が抜け落ちているのではないでしょうか」

そう、やっぱり政治を変えていくしかないのです。環境問題と、それを解決するためのビジョンが頭の片隅にすらないようなリーダーはいらない。“美しい国”だなんて口だけで言っていたって、こうしたビジョンと行動力を伴わないなら、ほんとうに美しい祖国を未来の子孫たちには残せない。
「前方が断崖絶壁であることが理性的にわかっていても、乗り合わせたバスの中でだれも声をあげられない」現状?
しかもバスはますますスピードを上げようとしているようにも見える。誰か運転を変わらなくちゃ。変わってくれる強力な運転手を選ばなくちゃ。

英国でもブレア首相が辞任の意向を示し、次期首相候補の一人は環境問題を政策の第一に掲げている。
日本はいかに?? とりあえず、安倍新首相の施政方針演説に注目です。期待してないケド。

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GOSAT

昨日の遠藤さんのお話の中で、聞いたことのない話題。

みなさん、ゴーサット、ってご存知ですか?
GOSAT-温室効果ガス観測技術衛星。

二酸化炭素だけでなく、温室効果ガスの排出を30センチ四方の単位で観測できるんだって。ってことは「○○さんの家、最近CO2出しすぎですよ~」なんて言われちゃう時代が来るカモしれない?!
温暖化、温暖化と叫ばれているけれど、実際に温室効果ガスの観測地点は、現在、地球上でたった391ケ所だけなんだって。それも日本や欧米が中心。ゴーサットが運用されれば、観測の目が全世界に広がるというのだ。
遠藤さんは「日本の宇宙開発技術も捨てたもんじゃない」とおっしゃっていた。
へぇ~、人工衛星の打ち上げに何度も失敗して何十億?も税金をムダにしてるだけじゃないんだ。

と思ってサイトを見た。
今のところ、企画~設計~準備段階を終えて、開発に入った段階らしい。
運用はいつだ? その前に、日本にとってネックな打ち上げが待っているゾ。
この衛星、間に合うといいですね。がんばれ、日本の技術者たち!

GOSATのサイトはこちら↓
http://www.satnavi.jaxa.jp/project/gosat/index.html

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イルカ語が話せたら

もしも、ピアノが弾けたなら♪  なーんて歌があったけど、
もしも、イルカ語が話せたら、あなたは彼らと何を話したいですか?

御蔵島で泳ぎながら「ああ、イルカの言葉が話せたらなぁ」と何度となく思った。
少しだけ遊んで彼らがすぅ~っとどこかへ消えてしまったあと、「お願い、帰ってきて! もうちょっと遊ぼうよ」と真剣に心の中で念じた。姿は消えてしまっても、キュィ~~~ン、キュゥ~~ン、キィ~キィ~っていう彼らの声だけがどこからともなく聞こえてくるときも。
でも通じるはずはなく。
かと思うと、イルカのことはあきらめて、でも海からは上がりたくなくて、次の遭遇に備えてひとりで何となくクルクル回る練習をしていたりすると、どこからともなく現れて、すぐ近くを通っていったりする。完全な、片・思・い。

今回のスクール、実は気持ちがしぼみそうになる場面もあった。
日曜日のドルフィンスイムはなかなかイルカが見つからなくて、いつものポイントに行っても空振り。たまにいても自分たちだけで絡むオスの群れだったりして。
20分くらいも走っただろうか、前方に他の船が2-3艘見え、イルカもかなりの数がいる様子。わたしたちの船も近づいて、船長の判断で入ってみることに。
その群れはわたしが見ただけで10数頭はいて、遊びモードのようだった。わたしたちが入ってしばらくすると、その日は他の船もなかなかイルカと会えなかったのだろう、続々と船が集結してきて、大変なさわぎ。

気がつくと近くに見えるイルカの数は2-3頭に減って、その10倍はいるかと思う人間で視界はいっぱい。それも一緒に遊んでもらいたい・・・というよりは、手には大きなカメラやビデオを持って追いかけ回す人の方が多くて。当然、イルカ以外は目に入るはずもなく。わたしも浮上しようとして行く手を阻まれた・・・。
そんな人ごみには入ってゆけない。水面でふと船の方をみると、すでに船上に上がっていた(せ)と目が合った。多分、わたしたち参加者の様子を上から見ていてくれたのだと思う。
わたしも「もういいや」の気分で上がろうと思ったが、まだハシゴがかかっておらず、そのまましばらく海の中で魚やウミガメを相手に過ごす。

(せ)によると一時は10艘くらいの船がいたという。全部で100人近くがいたことになる。船長さん同士、「いや~すごかったね。こんなのは久しぶりだな。見てて面白かった」と話あっている。「こんなのは久しぶり」という言葉に、かすかな慰めを見出す。こんなことは、そうそうあってほしくない。
自分もお客のひとりとして入っている身であれば、大きなことは言えた義理ではないが、あれはひどい。限度、節度ってものがあってしかるべきだろう。

そうは思わない、イルカたち? ほんとのところはどうなの?
本当に本当にイヤだったら、多分彼らも逃げ出すとは思うのだけれど・・・・誰も見向きもしないわたしですら浮上に苦労したほどだ、10倍もの数の人間に追いかけ回されて逃げ場を失っていたのではない?
ビチビチビチ・・・・っていう、いつもの声とは違う音は、いったい何を意味していたの?

もしも、イルカ語が話せたなら。

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私であることの証明?

といっても別に、哲学とかそんな難しい話じゃなくて。
防災の日が近いせいか、とあるサイトのお題に、「災害時、これだけは持って逃げたい!」っていうのがあって、やっぱり現金と通帳、印鑑、年金手帳にパスポート・・・・なんて考えてたら、ずっと前から疑問に思ってたことを思い出しちゃった。それは、

通帳もキャッシュカードも届出印も全部なくしちゃったら、預金はどうやって下ろせるのだろう?

ということだ。
だって、上に書いたような貴重品は、たいてい家に置いてある。例えば留守中にアパートが火事で全焼・・・・ってことだって、あり得ないことじゃない。仕事を家の外に持っていれば平日は1日の半分、休日はもっと長い時間、家を空けることだってある。
耐火金庫なんて持ってないから、そうなったら全ておジャンだ。泣く泣く銀行の窓口に行って、「私は○田○○子なんですが、かくかくしかじかで・・・」って説明して、果たして自分のお金を手にできるものなのか?
口座番号と暗証番号を覚えていればOKかも(甘い?)。でも覚えていなかったら?

銀行に勤める友人に訪ねたこともあるけど、説明が悪かったのか、こちらの疑問を理解できなかったらしく、ビンゴな答えは返ってこなかった。
う~~~む。誰かご存知の方いませんか? 
やっぱり手のひらで認証するっていうの、有効かも。手だけじゃ心許ないから、虹彩の模様とか声紋とかも保管しておいてもらおうか。個人情報保護の問題もあるから、むやみやたらにというわけにはいかないだろうけど。

なーんて考えると、私が私であることって?
ふだん特別苦労せずに○田○○子で通しているのが不思議なことにさえ思えてくる・・・・・


ところで、貴重品のほかには・・・・撮りためた中で気に入った写真のポジフィルムは持って出たいな。それから、モイヤー先生のサイン入りCDと本。それに友人達の住所録だ!
そういう意味じゃ、携帯電話も必要。あとは・・・・思いつかない。
実家にいるときなら、母とサンボ、だけどね。

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ナチュラリスト考

「ナチュラリスト」という言葉を聞いたことがあるだろうか。
自然愛好家・・・なんて解釈もあるようで、自称ナチュラリストを名乗っている人もいるようだ。
自然は愛好の対象だろうか? なんて小難しいことは今日は抜きにして。
わたしが思うナチュラリストとは単に自然が好きなのではなく、自然に敬意を払い、自然に沿った生活をしている人(たとえ都会に住んでいたとしても)。生き方そのものが "For nature"な人。

山や森をフィールドとする人に比べて、海で活動する人がナチュラリストと呼ばれることはあまりないような気がする。(気のせい?)
なんでだろう? この人こそ! と思う人をわたしは何人かあげることができるのに。(だから気のせい?)

でも、ファンダイバー、ファンカヤッカー(って言葉はないと思うけど)はどうだろう・・・?
今日ランチを(か)と食べながらした話を思い出しながら、そんなことを考えている。
「自然が好き」・・・なのでさえもなく、「(キレイな)自然の中で遊ぶのが好き」な種類の人々は。
そういう人たちは多分、キレイで面白かった場所から帰って日常に戻ったら、次の休みに出かけるまでは、キレイサッパリとフィールドのことは忘れているかもしれない。自分の生活が自然環境に与えている影響については思いも及ばずに。

それを攻めるつもりはないけれど。
自分になにかできることはないか? って考えることはないのかな? ただ素朴なギモン。

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